月とナイフ

見事な満月の出た八月の夜。
電線もビルもないまっさらなところで月を見たくなった。
海に行こう。誰もいない海で満月を満喫しよう。
去年は朝日を見てしまったが今回は月を見に行きたい。

午前ニ時半。
財布と携帯だけ持って家を出る。
原付でとりあえず西へ西へ。
月と道だけを見て、ひたすら西へ。

県道を走る。新興の住宅街を抜けて、しばらくすると田舎道が出てくる。一気に建物の背が低くなる。畑が増す。空気に土臭さが混じる。気温が少し下がったような気がする。

今、何キロだろう。スピードメーターは半年前から壊れている。

スリーエフの横、車高の低い白いスカイラインが6つの目玉をむいて僕の右を抜いていく。重低音といっしょにアッシャーの声が抜けていく。ワカモノの嬌声が残る。うらやましくなんかないやい。淡々と走る。

原付は原則として一人用の乗物である。気軽に出かけることができるのはとても嬉しいけど、誰かと一緒にどこかに行くことは難しい。サイドカーを積むか切符覚悟で二人乗りをするか。あまり見栄えのするものではない。思い出を共有するのに不向きな構造なのだ。

藤沢。潮風の匂いが増してきた。海が近づいている。僕の前身ごろは塩化ナトリウムに塗れていく。誰かと海に行ったことがある。いつだっけ。海が好きだった人を好きだったことがあった。誰だっけ。名前を思い出せるのに顔が出てこない。僕の頭に、誰かと共有する思い出が少ないことを思う。
「あなたの原動機(ハート)は抜け落ちて もう二度と火が入ることはないわ」
原付乗りが多数出てくる青春漫画『モーティヴ』の台詞を突如として思い出し、背筋がぞくりとなる。

推定時速45kmで南に走る。その速さで何か置き去りにしているものがある。
今汗を掻いているのは熱帯夜だから、背中が寒いのは風が袖から入り込むからだ。
長い信号待ち。シートから薄手のシャツを取り出して乱暴に袖を通す。それでも寒さがやまない。空腹だからかもしれない。
僕は誰かと会いたいのだろう。海で誰かと会いたいのだろう。しかし、誰と?

午前三時半。
江ノ島大橋を渡る。そこには誰もいないまっさらな海と月があるはずだった。

どうしてレゲエが鳴っているの?どうしてビールの売り子がいるの?
ああ、海の家だ。ハイシーズンの海なんだ。
ちっこい打上花火とアルコールの匂いと明るすぎる夜に絶望する。
アイスクリーム300円、バドワイザー500円。買うものか!
チューブが歌い始めた。ここは夏だ。でもここは海じゃない。人がこんなにいるのに、会いたい誰かはここにいない。

長袖のシャツと穴の開いたスニーカーで湿っぽい砂浜を歩く。
会いたい誰かがいないんじゃない。自分が場違いなのだ。
35個のごみを発見する。
浜を引き返して再び原付に乗る。江ノ島と海の家からなるべく遠くへ走る。

午前四時。
海沿いに階段を発見する。降りると寂れた砂浜。漸く、それらしい海を見つけた。波で丸く削れた石に腰掛け、月の光とサシで向かい合う。月が流れて雲が過ぎていくのを飽きずに眺める。

午前四時半。
石を枕に寝転がる。月と目が合う。はじめからこうすればよかったのだ。
少し眠る。

午前四時五十分。
朝日が昇ってきていた。潮も上がってきていた。靴底と靴下を石と水と潮でぬらして目を覚ます。頭も背中も砂が入って気持ち悪い。頭を振り、背中を払う。
階段を上る。コンビニでドーナッチョを買ってカカオを補給する。
もう少し東に行ってみることにする。太陽の上がっている方向へ、眩しさに目を細めながらも、行ってみることにする。